11年…。

 1週間前の夕飯に何を食べたかはよく思い出せませんが、11年前の今日のことやその後数か月の出来事は鮮明に記憶に残っています。平成23年3月11日午後2時46分、小4の柊伍選手はまだ下校前の学校にいました。果てしなく長くて大きな揺れ、それが何度も。管理人は仕事中でしたが、携帯がなかなかつながらないジレンマを抱えながらの帰路、あちこちで建物や地形の崩壊を横目にしつつ、度重なる余震で何度も車がバウンドしました。家族全員の無事が確認され、家の中はさすがにモノが散乱していましたが、もともと岩盤が強固なところのようで、大きな給湯器が傾いた程度で幸い大きな被害はありませんでした。何より奇跡的に停電もなく、井戸水のため水道も支障はなく、後にわかる東日本の被害の大きさや身に降りかかる“まさか”をその時には感じることはできませんでした。
 時間がたつにつれ壮絶な映像や被害が報道され、各地の親族や知人の安否を心配することとなり、そしてまさかの福島第一原発の事故。現地から自宅までは直線距離でも北西に約55㎞。県民として立地の恩恵を感じたこともなければ、身近に感じたこともありませんでした。「ヤバいかも」という雰囲気がありつつもどこかまだ遠い世界に感じてもいました。
 4月に入るころ、避難地域を除く県内すべての学校の放射線量の測定結果が発表され、柊伍選手の通っていた小学校がまさかの高線量トップ。地域がいわゆる”ホットスポット”となっていたことがわかりました。保護者も学校の先生方も何をどうすべきなのか、手探りの状態となりました。某官房長官は「直ちに健康に影響はない」を連発し、専門家の話も、恐ろしくなるものもあれば楽観視するものもありました。仕事に向かう道中ですれ違うのは捜索や復旧活動を行うのであろう緊急車両や自衛隊車両ばかり。テレビCMも「ポポポポーン」の連発です。何をすべきなのか、正しい情報な何なのか、何を信じればいいのかわかりませんでした。その後、すでに避難を指定されていた地域とは別に、世帯ごとに避難を勧奨する「特定避難勧奨地点」(避難指示区域には含まれないけど、年間の積算放射線量が20ミリシーベルトを超えるかもしれないから、一律に避難は強制しないけれど、避難するなら他の避難区域の住民同様の支援措置の対象としますよ)という制度ができ、6月、地区の中で線量の高い住宅の世帯や、その近所で子どもがいる世帯(菅野家含む)が虫食いのように指定されました。世帯による分断がおこり、地域のコミュニティーが崩壊し、人間関係や地域の行事にも様々な影響がでました(<補足>数年後裁判により指定されなかった世帯にも賠償が決定)。地震や津波被害で住宅や大事な方の命をなくされた方に比べれば小さい事でしょうが、家の新築から3年、地形的に天災の被害に遭う可能性は限りなく低いと思っていましたが、まさに想像外の出来事となりました。
 小学校では、暑くても長袖長ズボンにマスク、天気が良くても外には出ず、運動会も体育館での実施となり、当時スキーとともに熱中していたソフトボールのスポーツ少年団も、活動はおろかチーム自体も消滅しました。猪苗代町に避難先を確保し、避難元と避難先を行き来しながら小学校卒業までを過ごしました。その後会津若松ザベリオ学園にお世話になることになり(避難先もその後会津若松市へ)、余計な心配をすることなく、スキーに関しても様々なお計らいをいただいてスキー環境が整っていきました。皮肉にもあの事故や避難がなければ現在の「モーグルスキーヤー:菅野柊伍選手」はいなかったことでしょう。
 いつまでも被害者意識を前面に出すつもりはなく、このような背景で報道に取り上げていただいたこともありますが、他にもこのようなアスリートは山ほどいらっしゃると思います。それももっともっと大変な状況で。様々な困難を乗り越え、夢に向かって努力している選手がいることを、同情ではなく多くの方に共鳴をしていただければありがたいと思います。そして日本国民全員があの日から得た教訓を忘れてはいけません。
 11年たっても変わっていないことがいくつもあり、また、異なる意味で何かと暗い世の中になっていますが、明るく平和な未来が近い将来に訪れることを期待したいと思います。そしてあらためて震災で大切な命をなくされた方々の御冥福をお祈りいたします。

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